大判例

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仙台高等裁判所 昭和57年(ネ)284号 判決

控訴人

保住栄寿

右訴訟代理人

水谷英夫

被控訴人

右代表者法務大臣

秦野章

右指定代理人

林勘市

外三名

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の象担とする。

事実

控訴人は「原判決を取消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴人は主文同旨の判決を求めた。

当事者双方の主張及び証拠の関係は、次に付加するほかは原判決事実摘示のとおりであるから、ここにこれを引用する。〈証拠関係付加訂正略〉

(控訴人の補充答弁)

本件の被害者小原美鈴(事故当時の旧姓は佐藤、以下「被害者小原」という)には得べかりし利益の喪失はない。以下これを敷衍する。

一  被控訴人の主張(原判決の認定も同じ)によれば、被害者小原は本件事故当時一八才の高校生であつたところ、当時の同年令の女子の平均賃金は月額六万五七〇〇円であつた、同女は本件事故の後遺障害により労働能力の四五パーセントを喪失した、というのである。

ところで、交通事故の後遺障害による逸失利益の算定は、受傷前の収入額と後遺障害残存後の収入額との現実の差額によるべきものである。従つて、事故前に比して所得喪失をきたしていない場合、逸失利益は認められるべきではない。

被害者小原は、大学卒業後昭和五六年三月、特別養護老人ホーム暁星園に寮母として就職し、初任給月額一〇万四四〇〇円、その後昇給して右を上廻る俸給の支払を受け現在に至つている。このように、同女の現実の収入額は被控訴人主張の女子平均賃金を超えているのみならず、昭和五六年における二二才女子の賃金センサスと比較してみても、この平均賃金月額一四万八〇〇〇円であるのに対し、被害者小原は同年三月から一二月まで賞与を含めて合計一六九万五〇一〇円、平均月額一六万九五〇一円の支給を受け、更に昭和五七年度には平均月額一八万一〇八一円の俸給収入を得ているので、逸失利益を認むべき余地はない。

二  被控訴人は労働能力喪失説に立脚した主張をしているが、本件の場合は妥当しない。即ち、被害者小原は視力低下にもかかわらずその希望に沿つた進学、就職を果たし、他の同僚職員と比較して昇給、昇格の面で不利益を受けておらず、就労時に他の同種労働者に比して特別の労働力の支出をしているとは認め難いからである。

(被控訴人の反論)

一  逸失利益の賠償として填補される損害の本質を受傷の前後における収入の差額としてのみとらえるのは妥当ではなく、事故なかりせば被害者が有していたところの稼働能力の全部又は一部の喪失自体として理解すべきであり(労働能力喪失説)、近時の下級審裁判例の主流はかかる考え方に依拠している。そうする限り、外見的収入の増減は損害額の算定に影響を及ぼさないことになる。

ところで、後遺傷害による労働能力の喪失があつても減収を来たさない場合として、(一)その職種の特殊性と当該後遺障害との関係による場合、例えば単純な事務系労働者が左手の小指一本を失つた場合など、(二)当該被害者と使用者との特殊な人的関係や、使用者の恩恵、更には労働協約による場合など、(三)被害者が受傷前に比して労働を強化し、或いはより集約的な労働力を投下したりした場合などが通常指摘されているところであるが、右(二)、(三)の場合は外見的な減収がないとの一事をもつて逸失利益ゼロとの判断をするのが不当であるのは明らかである。本件の被害者小原に減収がなかつたとはいいえないのであるが、仮に減収がなかつたとしても、それは(三)の場合に該当するため、即ち特別養護老人ホームの寮母という普通の事務系労働に携わる女子に比べてはるかに苛酷な労働に従事し、殊に夜勤の折各部屋を見回る際被害者小原は視力低下の故に眼で見ただけでは老人の安否を確認することができないので、老人の鼻孔に手をやつて就寝状況を判断するなどの努力を払つていることによるのであるから、同女に減収がないとの控訴人の主張は誤りである。

二  被控訴人は従来昭和四九年度を基準にして主張して来たのであるが、被害者小原が現実に収入を得るようになつた昭和五六年四月を基準にすれば、二二才の同女の収入額は一〇万四四〇〇円であるのに対し、女子平均給与月額は一八才の場合で一〇万四九〇〇円、二二才の場合は一四万八〇〇〇円であるから、いずれの年令を基準にしても被害者小原には現実の減収があるのは明らかである。このように、同女には右一四万八〇〇〇円と一〇万四四〇〇円との差額四万三六〇〇円が一四万八〇〇〇円中に占める割合である約29.4パーセントの労働能力が現実にあつたというべきであるから、同女の逸失利益は、昭和四九年度における一八才の女子平均給与月額六万五七〇〇円を基準にして計算しても、

となる。従つて被控訴人の本訴請求は全部認容されて然るべきである。

(証拠)〈省略〉

理由

当裁判所も次に付加するほかは原判決の説示と同じ理由により被控訴人の本訴請求は正当であると判断するので、ここに右記載を引用する。但し原判決五枚目表二行目の「1」及び同裏一行目の「及び」の次にそれぞれ「原本の存在及び」を加え、同六枚目表一〇行目の「成立に争いのない甲第九号証」を「弁論の全趣旨により真正に成立したと認められる甲第二号証の六」に改める。

控訴人は、被害者小原は昭和五六年三月以降原判決認定の同年令女子平均賃金を超える収入を得ているから、同女に逸失利益はないと主張する。〈証拠〉を総合すれば、当審における控訴人の前記主張一後段の事実を認めることができるから、控訴人の主張は理由あるかの如くである。

しかし、本件は昭和五〇年一二月に発生した交通事故の加害車両である控訴人保有車が自賠法所定の保険契約のなされていなかつた無保険車であつたため、政府(被控訴人)において、被害者小原から請求受領の委任を受けた東京海上火災保険株式会社に対し、同法七二条一項後段に基づき昭和五三年六月九日政府自らが算定した損害填補金五一二万三八八九円(うち五〇四万円が後遺障害による逸失利益と慰藉料)を支払い、同法七六条一項に基づき被害者小原の控訴人に対する損害賠償請求権を代位取得したことを原因とする訴訟であり(その基礎たる事実関係が被控訴人主張の請求原因どおりに認定できることは右引用にかかる原判決説示のとおりである。)、右逸失利益算定の当否がここでの問題点である。控訴人の主張は右算定後に生じた事情に依拠してこれを不当であるとするのであるが、逸失利益に関する右の如き算定は、殊に未就労者に関しては、将来の、本来は確定不能な余命、稼働可能年数、職種、給与額等につき統計的数値を用いて事実関係を擬制した上でするのであるから、死亡事故以外の場合は、その後現実に生じた事実が右と乖離するのはむしろ当然のことであつて、これに依拠して右算定を非難することこそ不当であるというべきである。即ち、逸失利益算定の当否を判断するには、これがなされた時点を基準にして、用いられた統計的数値等が一般的に信頼されていたものであるかどうか、これらを基礎とする計算が正しいか否かのみを問題とすれば足りるのであり、右時点以後に生じた事情は考慮すべきでないと解するのが相当である。補足するならば、右の如くにして有権的に事実関係が擬制されると、以後これのみが法律上の事実として扱われ、現実に生じた事実は事実としての法律的意味を有しないこととなるともいいうるのである。視点を変えて考えても、本件加害車が無保険車ではなく、従つて控訴人に自賠法違反がなかつたならば、恐らくはより早い時期に保険金が支給された上、その後被害者が就職して収入を得ても加害者側がそのことを問題にすることはなかつた筈であり、できないことでもあるから、このように法規を遵守して保険料の払込をしている者が問題となしえないことを法規違反者の防禦手段として許容するのは著しく均衡を失する結果となる。

本件の被害者小原は現実には就職して統計上の平均賃金を超える収入を得ているものの、同女の意欲の程度とか生活信条の如何によつては無為無収入の日々を送るという事態も十分にありえたところであり、その場合には稼働収入による逸失利益の補填はないので、控訴人は前記の主張をなしえなかつたことになる。本件の如く逸失利益算定の基礎たる事実が有権的に擬制された事案においては、擬制後における被害者の意欲と努力によつて生じた事実に助けられた加害者の主張は一つの背理であり、同時に偶然の事情に支えられたところの、それ故に甚だ根拠の薄弱なものでもある(被害者が職業から離れれば直ちに前提が崩れてしまう)。かかる偶然の事情は、例えば、政府からの保険金支払がなされたのち間もなく、被害者が別の原因で死亡して実体的には死亡時以降逸失利益を考える余地がなくなつたような場合にも見ることができる。即ち前記の基準時を政府から加害者に対して支払請求がなされたとき、又は事実審の口頭弁論終結時とする考え方をとるとすれば、右の例のような場合にも自賠法に違反している加害者がその義務の大半を免れるのを承認せざるをえないことになるのである。

以上考察したとおりであるから、本件逸失利益算定の当否は算定時を基準にして判断すべきところ、その際に用いられたと推認しうる資料(弁論の全趣旨により成立の真正を認めうる甲第二号証の一)に記載されている数値は一般的に信頼されていたものであり、これに基づく計算に誤りはないということができる。従つて右の算定は正当であり、控訴人はこれに基づく逸失利益額の賠償請求を免れることはできない。

よつて本件控訴は理由がないからこれを棄却することとし、民事訴訟法九五条、八九条に従い主文のとおり判決する。

(輪湖公寛 小林啓二 斎藤清実)

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